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日本人の「潜在的暴力性」について

公開日: : 最終更新日:2016/12/01 意見

〜お断り〜
下記の文章は明確なデータも示していないですし、「東京にいる人=日本人」という図式で考えており、日本人の概念をしっかりと考察していないので、軽い感じで読んでくれればと思います。

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僕は現在23歳ですが、これまでの人生の大半を中国で過ごして来ました。年でいうと3歳から19歳、16年間に渡る中国生活でした。1歳から3歳までは日本で暮らしていましたが、何の記憶もないので、実際の日本での生活歴は4年ぐらいです。血統的には日本と中国のハーフですが、自分は日本人であると自覚しているし、日本人学校に長く通っていたので、文化的にも日本人です。ですが、4年前に日本に帰って来てから、常に違和感がつきまといます。

「日本人が怖い」

日本に来た外国人の多くは日本人は親切で、とても素晴らしい民族だと言います。僕も夏休みなどでたまに日本に帰国していたときは、日本という国を楽園であると考えていました。しかし日本で実際に生活し始めると、様々な違和感を感じ始めました。そのうちの一つが上に示した「日本人が怖い」でした。

確かに日本人はとても親切です。コンビニやスーパー、レストランの店員はとても親切で、中国のようにお菓子を食べながら接客するおばちゃんは存在しません。また列に並んでいるときに割り込まれる心配もないし、スリも少ないのでカバンのチャックを常に気にする必要もない、中国のように猛烈な運転をする人もいないので、安心して道を歩けます。こういう所に僕は楽園性を感じていたのでしょう。

しかし長く暮らしてみると、どうも具合が変わってきます。電車に乗っている人たちや店員さんたち、街を歩く人たちが皆何かを我慢しているように思えるのです。それを象徴する点として、日本の街では喧嘩をしている人が殆どいないことが挙げられます。中国では道端で言い争いをしている人たちをよく見かけますし、店員と客の激しい応酬も日常茶飯事です。中国の人はどうも不満をすぐ放出する傾向にあるようです。

対して日本では街中での喧嘩を殆ど見かけません。日本と日本人が非常に洗練されているから、喧嘩が起きないという考え方も出来ましょうが、日本人も人間なのでイラつくこともあるでしょう。しかしそれを表に出さない。耐え忍ぶのです。しかしいつまでも耐えられるわけではありません。いつか耐えた怒りが溢れ出します。そのため日本での喧嘩は非常に怖い。たまに駅などで見かける喧嘩(口論)は不気味な怖さを持っています。自殺という行為も溜まりに溜まった不満の爆発であると考えるならば、そのような人が年間3万人、1日あたり100人もいるのが日本という国です。

中国人の喧嘩はとても可愛いものです。なぜならその場での怒りのみが噴出しているからです。しかし日本人の喧嘩は、その場の怒りに積年の恨みが上乗せされているのです。街中で毎日目にする人たちが、そんな溢れんばかりの怒りを溜め込んでいると考えると非常に怖い。軽くぶつかってしまうのだって怖い。ちょっとした不満を言うのも怖い。街中の人たちが潜在的な暴力性を心に抱いているように思えるのです。

潜在的な暴力性。この言葉に行き着くと、第二次世界大戦時の日本を思い起こしてしまいます。侵略地での暴虐は現在のような「親切な」日本人には考えられないことです。また国力や物量で勝るアメリカに喧嘩を売るなど普通の神経では中々出来ません。先の大戦は政治家や軍隊によるもにで、一般市民はその被害者でもあったと言われていますが、それは本当でしょうか。もし今の日本のように怒りを溜め込む社会が、戦前においても存在していたのなら、潜在的な怒りが戦争支持に繋がっていたことは大いに考えられます。

戦争の話は面倒なのでこれ以上突っ込みませんが、重要なのは、要するに日本の人は色々な感情を溜め込みすぎなんじゃないかな、ということです。そこが僕に「怖さ」を感じさせるのではないかと思っています。相対的に見て日本社会は非常に秩序が保たれているし、暮らしやすのは事実です。しかし同時にそこには「潜在的な暴力性」があることもあながち間違えではないように思えます。今後の社会設計で考慮しておくべき問題であると言えるでしょう。

ただ最初にも書きましたが、僕がいつも見ている「日本人」は「東京にいる人」なので、もしかしたら上に書いたのは、東京でのみ確認できる事例なのかもしれません。また引き合いに中国も出していますが、日本よりも中国の方が優れているといった考え方を示しているわけではありません。一学生の戯言程度に読んで頂ければ幸いです。

 

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Comment

  1. 高橋 より:

    “潜在的な暴力性。この言葉に行き着くと、第二次世界大戦時の日本を思い起こしてしまいます”何をバカなことを(お宅の国は文化大革命等でン千万人はころしてるでしょうが

    • bon より:

      コメントありがとうございます(^o^)/

      日本人が世界の中でも特異な暴力性を持っている、という意味ではなく、日本人にも暴力性はあって、それは中々見えにくい形で存在している、というのが今回のテーマでした(明記しておりませんでしたσ(^_^;))

      第二次世界大戦については、もちろん日本政府にも意図があり、大義もあったのだとは思うのですが、戦争という手段を取った以上は少なからずそこには暴力性があります。そして国民の中にも潜在的に暴力性があったから、戦争に同調してしまう部分もあったのではないかと思います。
      しかし日中戦争の前期、つまり日米開戦前の中国において日本は非常に優勢を保っており、客観的情勢見ればアメリカに勝つ可能性もあったと思うので、暴力性のみで第二次世界大戦を捉えことは無理であることについては僕も承知しております。今回は書いているときの筆のノリで戦争に触れたので、色々と主張に問題が出てしまいました^_^;

      何れにしても、日本人は非常に親切だけれども、潜在的に暴力性を備えているという点については事実であると考えています。
      ではここで言う「日本人」というのは、日本列島に住んでいるという意味で地理的な「日本人」であるのか、日本文化を身につけているという意味での文化的な「日本人」、のどちらなのかという疑問も生じましょうが、これに触れると論点が広がりすぎてしまいますので、そこについては差し控えさせてください。

      あと、文化大革命に触れられましたが、文化大革命については僕も大虐殺であったと認識しています。

      • ntnt より:

        当然のことです
        見える形であるかどうかの問題であって…

        楽園のように仏のような人ばかりいる所なんてあるはずないです

        • bon より:

          コメントありがとうございます(^-^)/

          正にその通りですよね。日本という国で生活することへの憧れが、今回書いたような違和感へと繋がってしまったのでしょう。
          日本が住みやすいことには変わりないですが(^^)

  2. gum より:

    ブログタイトルの「学んで思わざれば~」は論語の一節ですね。

    この記事のテーマは日本人が持っている潜在的な「暴力性」についてですが、実は、この潜在的な暴力性の背後にあるのが、「論語の教え」そのものだとしたら、どうしますか?

    日本に論語がもたらされたのは、かれこれ1400年前の奈良時代くらいで、江戸時代には徳川幕府の国策により、論語の教え(儒学)が国の学問に据えられました。

    ただし、中国のような官僚制までは導入されずにいましたが、その代わりに日本では特定の社会層だけが論語の教えに触れるのではなく、寺子屋という形で庶民レベルにまで、「子のたまわく」という論語の学びが、普及するのですよ。

    そして、その流れが敗戦でGHQに「軍国主義につながる」という理由で、否定されるまで続くわけです。

    結局のところ、日本人の道徳観の根幹には今も昔も論語の教えがあるのですが、戦後に入っては、それがいわば「地下に潜る(表面的に見えなくなり、モラルや道徳のルーツが分からなくなった)」形になってしまい、そのため他人に対する過剰な道徳観の強要、という形で噴出したり(前後の見境のないネット叩きなど)、今回の記事のように必要以上に耐え忍んで、ある機を境に爆発する。こういう現象が起こるのでしょう。

    孔子本人は「過ぎたるはなお及ばざるが難し」こう言っているのにもかかわらず。

    ただ、誤解しないでほしいのですが、「論語の教えが暴力を生む」と言いたいわけではなく「正義に対する過剰な要求が、暴力を正当化させるために使われる」こう言いたいのですが。

    • bon より:

      コメントありがとうございます!

      「論語の教え」という観点から捉えるのは面白いですね。
      何が良くて何が悪いのか、日々判断しているはずなのに、その価値判断の根源が良く分からない。根源が分からないのに、なぜか価値判断が出来てしまう。そういった意味で、論語の「亡霊」が潜在的な暴力性を生んでいるのかもしれませんね。

  3. 通りすがりの在日中国三世 より:

    この本の中に、筆者が中国が朝鮮半島の人に、いつか日本人がキレて大挙として襲ってくるんじゃないか、と言われている描写があるんですが、似たような話だと思いました。戦争のことも書いてありましたよm(_ _)m

    国のために死ねるか 自衛隊「特殊部隊」創設者の思想と行動 (文春新書) https://www.amazon.co.jp/dp/4166610694/ref=cm_sw_r_cp_api_0b2qyb40WHJ5V

    • bon より:

      本の紹介ありがとうございます!

      中国や韓国、北朝鮮の一部の人たちが、日本の戦争責任の追求をやめないことは、もしかしたら日本人の潜在的な暴力性を感じ取っているからなのかもしれません。

  4. Moriya, Tomo より:

    暴力性を考えるならば、国ごとの殺人事件の件数でも調べればいいでしょう。
    銃の所持が多いアメリカなどは例外として、同程度の経済力を持つ国と比較すれば暴力的かどうかひとつの資料にはなります。

    • bon より:

      確かに1つの有力のデータになりますね。
      「殺人事件が多い=暴力性がある」という図式で考えれば、日本人は比較的暴力性のない人々になります。
      ただ、自殺を暴力性の1つの表れと考えると、自体は変わってくるように思えます。日本は歴史的に自殺ないし自害に何かしらの意味を持たせてきているので、この点については一考の余地があると思います。

  5. じゅでぃ より:

    地方出身で、東京に住んでいる学生としての一言。
    首都圏の人は、人を傷つけないようにコミュニケーションが非常に洗練されていて、本音を中々言わないなと感じています。

    地方出身者はそれ同士で仲良くなりやすいという習性があるようなのですが、それは本音を言い合えることに由来しているのかもしれません。

    非常に考えされる素敵な文章でした。

  6. konton より:

    こちらの公開意見を読んで、映画「鬼子来了」(2000年)思い出しました。
    村での惨劇直前の日本兵の暴力発動が唐突すぎて驚いたのですが、香川照之さんの撮影日誌を読んだらやはりあのシーンは納得できず監督に問い質したと書いていたと記憶してます。
    しかしDVDで見返すと中国人側から見た日本人の怒りの発露が理不尽すぎて逆に恐怖を持って伝わりました。
    日々不満を溜め込んだまま習慣として相手には言葉で抗議せず、うわべで迎合して、(日本人側から言えば我慢に我慢を重ねて)突如取り返しのつかない暴力を振るうという行動パターン、確かに怖いです。

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